✔ マジョリティ(社会的多数派)からマイノリティ(社会的少数派)への差別や抑圧に「おかしい」と声をあげるのは、だいたいマイノリティ側である。
✔ それもそのはず、マイノリティとマジョリティでは、「気付き」のステップが違うのだ。
マジョリティ(社会的多数派)からマイノリティ(社会的少数派)への差別や抑圧について、声をあげるのは大体いつもマイノリティ側である(そのことをもって、「ノイジ―マイノリティ」とか揶揄する人もいる)。不均衡に気持ち悪さを覚えつつも、なぜそうなるのか、はっきり整理できずにいた。
そのあたり、上智大学で「差別の心理学」を教えていらっしゃる出口真紀子先生に「マイノリティとマジョリティの”気づき”のステップは異なる」という話を伺ったことで、自分の中でストンとおちたので、説明したいと思う。
先生によれば、人間が自分のマイノリティ性に気づき、社会変革に動き出すまでには、5つのステップを要する(下図)。
たとえば、私が「女性」というマイノリティ性に気づくまでの流れをこの図に当てはめると、以下のように整理できる。
一方、マジョリティ性に気づくまではどうかというと、6つのステップを要する(下図参照)。
たとえば、私はきゃんきゃんと出会って、きゃんきゃんが直面している差別に気づいたことではじめて「自分が日本人ぽい見た目をしている」ことが日本において特権的な(マジョリティ性ある)立場であることに気づいたわけであるが、
と、その「気付き」にたどり着く前に、かなりの葛藤と時間を要した。というのも、そう、既にお気づきと思うが、マジョリティの「気付き」のステップの方が、一段階多いのである。
具体的には、マジョリティの場合、「現状維持へのプレッシャーに負け、マイノリティを避ける」という段階が挟まるので、マイノリティのそれと比べて気付きが遅くなりやすい。
考えてみれば当然だ。マイノリティの場合、差別を放置すれば最悪命にかかわるが、マジョリティの場合は、そういう不利益がないので、マイノリティを避ける(=見て見ぬふりをする)ことができる。それもまた、マジョリティに与えられた「特権」なのだ。
だが、誰もが「マジョリティ性」と「マイノリティ性」の両方を兼ね備える以上、そうやって見て見ぬふりを続け、差別や抑圧をそのままにしておくと、いつかそのツケは自分(のマイノリティ性)で払うことになる。(たとえば、私が海外に行ったら、今度は私が「外国人ぽい見た目」であるために差別を受けるかもしれない。)
自分の痛みにも、人の痛みにも、可能な限り敏感でありたいと思う。
たとえ、それがいばらの道であっても。
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