(本レシピのポイント(作成者:ちろちろ)
✔ 「ゲイの友達がいるから、偏見がない」という人ほど、偏見があるもの
✔ 本当の「友達」は、責任逃れの盾ではなく、責任を伴う剣である
以前、同僚と世間話をしていたとき、こんなことがあった。
テラスハウスって番組、海外でも流行ってるらしいけど、あれってハーフタレントばっかり出てるから、日本の番組とは言えないよね。
は?(イラッ)「ミックスの人は日本人じゃない」ってこと?
(げっ、なんか怒ってる、やばっ)…いや、その、いわゆる一般的な日本人じゃないっていうか…ほら、あれなんだよね、俺、
ハーフの友達がいるんだよね(ドヤアアアア)
だから何?である。「ミックスの友達がいる」という事実は、彼のミックスの人に対する「日本人ではない」という差別発言を何ら正当化しない。「こりゃだめだ」と諦め、話を打ち切った。
LGBT+の世界でも同じで、「私ゲイの友達がいて~だから全然同性愛に偏見ないんだよね~」みたいなことを言われたら「あっもうだめだ、おしまいだ」という感じである。
なぜなら、言い訳として使える時点で、それは「友達」ではないからだ。童話「星の王子さま」で、キツネは王子さまに、「絆を結ぶ」ことの意味、友達になることの意味をこう説明する。
きみはまだ、ぼくにとっては、ほかの十万の男の子となにも変わらない男の子だ。だからぼくは、べつにきみがいなくてもいい。きみも、べつにぼくがいなくてもいい。きみにとってもぼくは、ほかの十万のキツネとなんの変わりもない。でも…(絆を結んだら)…ぼくらは互いに、なくてはならない存在になる。きみはぼくにとって、世界でひとりだけの人になる。ぼくもきみにとって、世界で一匹だけのキツネになる…
絆をむすんだものには、永遠に責任をもつんだ。
そう、友達は、「自分の価値観を変えてくれる特別な存在」、「永遠の責任」を負ってもいいと思える存在だ。責任逃れの盾ではなく、重たい責任を伴う剣なのである。
だから、本当にミックスの友達がいたなら、「ハーフの人は日本人じゃない」なんて差別的な言葉が出てくるはずないし、本当にLGBT+の友達がいたなら、「私には偏見がない」なんて軽い言葉が出てくるはずがないのだ。もう一度あの同僚に会う機会があれば、「歓喜の歌」のフレーズを捧げたい。
そうだ、地球上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい
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[…] (「ゲイの友達」はあなたの盾じゃありません/‘My friend is gay’ is not an excuse)「ゲイの友達がいるから偏見がないです」って言う人ほど、偏見があるものなのです。If you hear a person say ‘my friend is gay’ as excuse, that is not real friend! […]