✓ 男性同士の恋愛作品が好きな女性を指す言葉「腐女子」
✓ 「自虐ネタ」であり、社会の蔑視へのカウンターであるという意義はわかった上で、3つの理由から、そろそろこの言い方やめませんか、と提案させていただきます。
2022年の紅白に、僧侶でLGBTQ活動家の西村宏堂さんが出演した。
私は放送時間帯、祖母の家を訪ねていたのだが、親戚のひとりが、西村さんを見て、
「NHKは普通の番組なんだから、こういうイロモノは出さないでほしいよな」
と言った。ほんと、気持ち悪いわねえ、と追従する祖母をぼんやり見ながら、かつてTwitterで見かけた「腐女子」の発言を思い出した。
「腐女子」という言葉は、90年代ごろから、(主に二次創作の)男性同士の恋愛作品が好きな女性の自称として広まった。「婦女子」という言葉をもじった造語で、
・原作で恋愛関係にあると明言されていない男性同士について、恋愛関係にあると「妄想」することを「腐った」思考だと自嘲する「自虐ネタ」であるとともに、
・BLを下等な文化と嘲笑する社会への「そうですが何か?」というカウンター的な側面もある。
たしかに、下記記事で述べた通り、「クエーカー」や「クィア」など、侮辱の言葉をあえて自称として使うというのは、マイノリティが取りうるひとつの戦術である。「腐女子」という言葉が今もネット上で氾濫し続けているのは、その「格好良さ」ゆえだろう。
けれど―そうした意義を十分理解したうえで―もうやめませんか、と言いたい。理由は3つある。
学生の頃、「魔人探偵脳噛ネウロ」という作品が大好きで、当時隆盛を極めていたニコニコ動画にて、ネウロを題材としたMADをよく見ていた。主人公であるネウロは「魔人」だが、普段は人間の男性の姿をとっている。もう一人の主人公であるヤコは女子高生探偵で、ネウロのよき相棒だ。
原作において、一切この二人が恋愛関係にあるという描写はないが、「ネウヤコ」(ネウロとヤコの恋愛二次創作)はニコニコ動画の一大ジャンルだった。しかし、誰もこうは言わなかった。
「原作で全く恋愛関係にないネウロとヤコをくっつけるなんて、私は”腐って”いる」
そう、異性愛関係であれば、いくら「妄想」しようが、「腐る(くずれいたんで、だめになる)」というネガティブなワードで呼ばれることはない。「普通」だからだ。BLに対して、異性愛を描いた作品を「NL(ノーマルラブ)」と呼ぶことがあるのと同じ理屈である。
同性愛は「異常である」「おかしい」という感覚なしに、「腐る」という言葉は成立しない。つまり、「腐る」という言い方はれっきとした差別用語なのである。
先ほどから登場している「BL」(ボーイズラブ)という言い方や、「シップ(ship)」あるいは「キャラ名×キャラ名」(※先ほどの「ネウヤコ」などがまさにそれ)が既に広く流通しており、これらを使うことで、「腐」という言葉遣いは回避できる(実際に、使っていない人も増えている)。
3つ目、これが最も問題だと思うが、「腐女子」と自称する人は、「私は普通ではないので、“一般人”の目につかないところで活動すべきである」という感覚を持っていることが多い。
・「腐向け注意」というタグを使ったり、
・「男性同士の恋愛描写があるので、苦手な方は回れ右ください」と書いたり、
・公共の場で腐った会話をするのはマナー違反です!とほかの人に注意したり、
とにかく「普通の空間」に立ち入らないように「わきまえよう」とする。
確かにR18作品等のゾーニングは必要だ。だが、例えば、我々が映画館で予告編を見る際、必ずひとつふたつ異性愛作品が混じっているわけだが、いちいち「異性同士の恋愛描写があるので苦手な方は回れ右ください」というテロップが出るだろうか。なぜ、同性同士の恋愛描写だけ、「腐った」ものとして、「一般の世界」から偏執的なまでに切り離す必要があるのか。
答えは、冒頭の紅白に対する私の親戚の発言と同じだ。同性愛は「イロモノ」だから、一般の世界から隔絶しているべきである、という発想こそ、行動原理である。
気を遣いすぎるくらい気を遣う割に、そうやって「臭い物に蓋をする」ことが、現実の同性愛者に対する差別に結び付くということには、なぜか気が回らないらしい。
男性同士の恋愛作品に萌え、生きる力をもらっているというならば、現実に存在する同性同士の恋愛にも、最低限の敬意を示すべきだと私は思う。
あなたが「私、腐女子なんですよ」と嗤うとき、それは「自虐」で終わらず、社会の差別を強化することで「他虐」にもなっているのだということ、そろそろ気付きませんか。
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