✓ いつの間にか映画「ゴールデンカムイ」を15回見ていたちろちろです
✓ こういうブログを運営していると、たまに「差別をしないためにはどうすればいいですか」と聞かれることがあるのですが、そんな方法はありません!!というお話です
アカデミー賞の授賞式での一幕が話題になっている。
白人の演者がアジア系の演者を無視したのではないか、というもので、意図的だったにせよそうでないにせよ(おそらく無意識だったのだと思うが)差別ではないか、と問題になった。
実際、この記事にあるような無視/軽視をされた経験は、何らかのマイノリティ属性をもつ人なら一度や二度はあるのではないだろうか。私もイギリスにいた時、ボランティア活動の集まりに参加して、傍にいた白人の女性に話しかけたところ、なぜかひどく素っ気ない。反対側にいる黒人女性とは楽しそうに話しているのに、私が話しかけると、「ふーん」「ほーん」といった答えしか返してくれない。結局諦めて別の集団のところに移動したのだが、みじめな気持ちになった。
彼女(きゃんきゃん)も、「ハーフ」の見た目を持つ日本人として、同様の経験を何度もしている。私たちが休日にレストランに出向くと、ほとんど全ての場合、店員さんは私にしか話しかけない。彼女が先に店に入って「2人です」と言ったとしても、私に向かって「ご案内します」と言ってくる。そこにいるのに、そこにいないことにされるこの辛さは、味わったものしかわからないだろう。
さて、そんなアカデミー賞をめぐる議論の中で、「結局ポリコレとか言ってても、ハリウッドは平気で差別するんだな」「多様性なんて口だけじゃん。差別する人の作品なんか見たくない」というようなコメントを何度も見た。そう、確かに、ポリティカルコレクトネスも、多様性も、差別を減退させても、なくならせはしない。
なぜなら、差別しない人などいないからだ。
人間というのは差別する生き物なのである。集団の中でなんの根拠もなく上下を付けること、名も知らぬ誰かを見下して満足することを、呼吸をするのと同じ感覚でできてしまうのだ。
もちろん、我々には良識というものがあるので、気を付けることはできる。それでも、ふとした拍子に、今回のロバートダウニーJr.のようにポロっと出てしまう。
私も、何度も痛い目にあったことがある。たとえば、私はお化粧をしないのだが、学生時代、「お化粧をする人は勉強ができない」と明確な差別意識を持っていた。メイクに割く時間があれば勉強しろ、と思っていた。自分でもこれが根拠のない差別だということはわかっていたので、隠し通していたのだが、あるとき、先輩がアイドルのメイクシーン動画を観ているのを目撃して、「そんな下らないものを見てどうするんですか」とポロっと言ってしまった。その先輩はじっと私のことを見て、
「あなたにとって下らなくても、私にとっては価値があるの。お化粧をすることで広がる世界があって、お化粧をすることで救われる人もいるの」
と言った。ひどく恥ずかしくなったしその通りだと思って、それからはそんなことを思ったり言ったりしなくなったが、自分でも差別だとわかっていたのに、窘められるまで自分では取り除けなかった。意識できる差別ですらこの始末なのだから、意識していない差別はどうしようもない。
じゃあどうするんだ、差別は永遠になくならないじゃないかと言われるかもしれないが、先ほど言った通り気を付けることはできるし、「自分はこの分野について正確な知識がないから差別してしまうかもしれない。そのときは指摘してほしい」とほかの人に頼むこともできる。未知の領域や知識不足の分野について語るときは、それが一番誠実な方法だと感じる。
なんといっても、この世で一番恐ろしいのは、「自分は差別しない」と自信満々で語る人だ。そういう人に限って、こちらの心を肉切り包丁で深く切り付けてくるのだから、性質が悪い。
人間は差別する生き物だが、
反省できる生き物でもある。
そのことを胸に刻んで、他人の差別を指摘する勇気と、自分の差別を指摘される勇気、両方を兼ね備えておかねばならないなと、今回のニュースを通じて改めて感じた。
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