✓ 映画「ミッキー17」観てきました!
✓ 「パラサイト 半地下の家族」のポン・ジュノ監督のハリウッド進出作ということしか知らずに観たんですけど、めちゃめちゃよかったです。刺さらない人にはとことん刺さらないけど、差別/抑圧/軽視された経験がある人にはものすごく響くと思う。

映画「ミッキー17」を観てきました。予告を見る限り、主人公のミッキーが死を繰り返しながらエイリアンと戦う「死にゲー」的SFアクションだと思ったんだけど…


全く違ったね。ものすごくストレートに丁寧にひたむきに、差別/抑圧/軽視に対して「怒る」ことの重要性を教えてくれる映画だった。

悪役がどう考えてもトランプ夫妻まんまだったり、アメリカという国が土着の民族を侵略し排除することで出来上がった国であることを指摘したり、めちゃめちゃ攻めた作品で、まず間違いなく大ヒットにはならない(ていうか殆どのアメリカ人は怒る)と思うんだけど、差別/抑圧/軽視された経験がある人にはものすごく響く。

主人公のミッキー17は「使い捨て(エクスペンダブル)」の存在。何度も何度も死んでは蘇生されることを繰り返し、現在17回目(ミッキー17)で精神がすっかり摩耗してしまってるんだよね。これはすごくリアルで、差別/抑圧/軽視されることがあまりに長く続くと、無気力になっちゃう。怒ることすらできなくなる。

でも、いろいろあった結果、自分が死なないと作られなかったはずの新しいミッキー(ミッキー18)が誕生しちゃうんだよね。そしてミッキー18は「怒ることができる」ミッキーだった。そこから話が大きく動き出す。

なぜ差別/抑圧/軽視に対して怒らなければならないのか、あそこまでしっかり丁寧に説明してくれる作品があるということ自体が救いだなって思う。

あと、クリーパー(”エイリアン”的存在)のぬいぐるみほしい。

この映画、一見、「命を複製するのって人道的によくないよね、なぜなら人命軽視につながるから」っていうだけのザ・当たり前ストーリーになりそうなところを、そうやって非人道的な行為を繰り返されると、人は怒れなくなる、そうなると現状を変わえることができず、結果、何度も何度も過ちが繰り返されてしまう、っていうところまで掘り下げているんだよね。

ミッキー17と同じく「怒れない」人として、
〇ミッキーの友達(ティモ):強い者に迎合
〇ミッキーの同僚(カイ):おかしいと思っているけど口に出せない

特にカイね。この人はレズビアンであることが暗示されているんだけど、「女は子供を産むもの」と思っている悪役夫妻に、どうしてもそれをカミングアウトできないんだよ。これはすごくわかる、だって私も杉〇水脈の前でカミングアウトはできない。絶対にわかってもらえないどころか、傷つく結果しか生じないって思っちゃうから。ミッキーに言い寄ってくるのも、「普通」になろうと必死で試みてたんだろうなって思った。だから、最後素敵な彼女ができててうれしかったよ。

だけど、そうやってカミングアウトしないでいると、差別的な人ほど「私の周りにそんな人はいない」って言いだすんだよね…。あなたが信頼されてないんですよ。

で、更にここがポイントなんだけど、ミッキー17は「怒れなく」なってしまった結果すぐそばにいた大事な人(恋人のナーシャ)が自分のためにずっと怒ってくれてたことすら、気づけないでいた。ミッキー18と出会って「怒り」の感情を思い出してはじめて、そのナーシャの行為がどれだけありがたいことか、わかるようになった。

ひとりでは人間は闘えない。一緒に怒り、闘ってくれる人がいてこそ、そして、その人の大事さに気づいてこそ、現状を変えるために立ち上がれるんだよね。ナーシャの「後から来たのは私たちでしょうが!」というセリフは、今世界で起こっていることを考えるとより重く響く。ナーシャかっこいいよね…。まさに「トロフィーワイフ」なイルファといい対比になってた、自分で考えて自分で発言できる人はかっこいい。

あと、そうやって怒れるようになった後は、暴力ではなく言語コミュニケーションで事態の解決を図ろうとしていたのがすごく胸熱だった。人類皆殺しエンドの方がスカッとするだろうけど、あえての対話エンドなのすごくいい。ナーシャも政治的努力で最後のハッピーエンドを勝ち取るしね。結局、暴力でなにかを動かそうとしても別の暴力を産むだけで、根本的解決にはならない。

「翻訳機」(自分とは違うものとつながるツール)を投げ捨ててしまった悪役と、「翻訳機」を使い続けるミッキーとの対比はすごくきれいだった。

ミッキー18ああいうことになっちゃったのはすごく悲しかったけど、最後悪役ババアにクソくらえって言えたとき、ミッキー17はミッキー18(自分の中の怒りの感情)を引き継いで、「ミッキー・バーンズ」という一人の人間に戻れたんだなあ…。そういう意味では、「怒り」も大切にすべき自分の一部なんだよね。

あの映画の終わりは、新たな始まりでもあると思った。ふつうの映画なら絶対に死ぬはずのティモがしぶとく生き残るのもめっちゃよかったな、誰にでも悔い改めてやり直すチャンスはあるよ(アジア人監督という意味でも、単なる無害な善人じゃないアジア人を出したのは名采配)。

全然グッズないけど、クリーパーのぬいぐるみだけでも出してくれないかな。なんだかんだ可愛く見えてくるんだよな、あれはなぜ?丸いから?目があるから?

王蟲もそうだけど感情があって守りたいものがあるんだって、段々わかってくるからじゃないかな(子供殺されちゃうのかわいそうだった)。そういう意味では、異質なものの表面的な部分にとらわれず、本質を見るべし!の体現がクリーパーなんよね。クリーパーの手乗りぬいでいいから出してくだされ~!!
(終)
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