✓ きゃんきゃんです。「アリエルが黒人なんて嫌だ!」と叫ぶ差別主義者にムカついたので、ちろちろと映画「リトル・マーメイド」を観てきました。
✓ リトル・マーメイドも含めて、なんで「マジョリティに縋るマイノリティ」という構図がこんな多いんじゃい!という話をさせてください。
ちろちろと映画「リトル・マーメイド」を観た。別にディズニーが好きなわけではない。この映画、アリエル役に黒人のハリー・ベイリーが選ばれたことで、「アリエルが黒人なんて嫌だ!!」とTwitterで叫ぶ人がめちゃくちゃ多い。そういう差別主義者にムカついたから、応援の意味も込めて観てきた(感想については、別途書かせてもらう)。
キャスティングに文句をつける意見でよく聞くのが、(有色人種起用自体を嫌だと言っているわけではない、というアピールなのだろうが)「黒人のアリエルも嫌だし大好きなポカホンタスが白人でも嫌だ😢」というものだ。
そもそも、「有色人種であるポカホンタスが白人男性を好きになる」という白人植民者を美化しまくりの映画をどう観たら、ロマンチックで良いお話!大好き!!などと思えるのか甚だ疑問である。
しかし、この「マジョリティに好意を寄せる/縋るマイノリティ」という構図はフィクションでも現実でも非常によく見る。ゴールデンカムイのインカラマッ(アイヌ)も谷垣(和人)を好きになるし、「俺ゲイに/私レズビアンにモテるんだよ」と自慢するヘテロセクシャルの人を何人も見てきた。
蝶々夫人でも日本人(マイノリティ)が西洋人(マジョリティ)に恋して捨てられるし、漫画やアニメでも子どもや女性(マイノリティ)が強い男性(マジョリティ)に「助けてくれてありがとうございます」と感謝するシーンが頻出する。
こうした場合のほとんどで、マジョリティ側はたいへん魅力的に描かれている。描く人も、それを喜んで消費する人も、マジョリティ側の人間なのだろう。
その構図にカタルシスや感動を感じられるのはマジョリティだけだからだ。
断腸の思い、という表現がある。偉い人が旅をしていたとき、部下が子猿を捕まえて、その母親がずっと追いかけてきた後ばたりと死んで、その腹の中を見たら腸がずたずたにちぎれていた。それを見て皆、母猿の子を思う気持ちに心を打たれた…という故事に基づく言葉だ。
「マイノリティに縋るマジョリティ」を見て楽しめる人の心情はこれに近いと思う。そもそも人間(マジョリティ)が猿(マイノリティ)を苦しめなかったら、猿は死ななかったのだ。猿に死をもたらした張本人が「(猿のくせに)なんて偉いんだ!」と感動するのはどう考えてもおかしい。けれどこの話は美談として広く通用していて、現に慣用句になっている。
結局、無意識にせよ意識的にせよ、マイノリティを下に見ているからこその発想なのだ。
考えてみれば、リトルマーメイドも人魚(マイノリティ)が人間(マジョリティ)を好きになる話である。しかも、エリック(人間)が人魚になって海で暮らすのではなく、アリエル(人魚)が人間になって陸で暮らす。アリエルは友達も家族も海の中に置いてこなければならなかったのに、エリックはそんな心配は一切せず、犠牲も全く払わずに済む。さすがディズニー、マジョリティ受けする話がうまい。
そうやって小さい頃からマイノリティがマジョリティに従う構図を刷り込まれているから、マイノリティが「マジョリティに擦り寄らないでも生きていけるようになりたい」と権利を主張することに凄まじく反発するんだろう。LGBT法案を巡るゴタゴタで目の当たりにしたみたいに。ずっと弱くてちっぽけな存在でいてほしいのだ。
私たちは感動ポルノの道具として消費されるために生きてる訳じゃない。人魚と違って空想でもない。同じ人間で、同じ現実に存在している。「私のアリエルは黒人じゃない〜」とかぐちぐち言ってる暇があったら、現実の差別に目を向けてほしい。あなたはエリック王子の側の人間なんだから。
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