そういうものにわたしはなりたい

レシピ / RECIPE

✓ 彼女とひっそり結婚式をあげたときに、ひとりだけ、ご祝儀をくださった方がいた

✓ 今回の荒井秘書官の差別発言のときも、エールを送ってくれた

✓ その方のような人に、わたしはなりたい

先日、下記のツイートをしたところ、けっこうな反響があった。

ツイート内容を要約すると、

〇彼女とひっそり、二人だけの結婚式をあげたとき、たったひとりだけ、ご祝儀をくださった方がいた。その方は、今回の荒井秘書官の差別発言の時もエールを送ってくれた。

〇大勢の中のひとりの声だったとしても、それは苦しむ人の道しるべにも、希望を奪う呪いにもなりうるということを理解して、私たちは言葉を発するべきだと思う。

というものだ。反応してくれた皆様も、同じように誰かの言葉に救われたことがあったのだろう。

この方は古い知り合いで、福祉関係の仕事をされている方なのだが、彼女と結婚したことを打ち明けた際、「おめでとう!末永くお幸せに」としか言わなかった。ほかの人には、

「どっちが家事やるの?」
「男役はどっちなの?」
「女性同士だと大変でしょ?」
「彼女さん外国人なの?」
「LGBTが多いらしいし、渋谷に住めば?」
「日本は住みにくいだろうから海外行けば?」
「親御さんは悲しんでるんじゃない?」
「一時の気の迷いかも」
「なんかもったいないね」

といった、「同性愛って(異性愛と違って)困難が多くて辛いでしょ」的な言葉を投げかけられてばかりだったので、特別扱いせず、ただ祝福してくれたことが、体が震えるほどうれしかった。

ある時、その方と夕食を共にした際、こんな会話があった。

その方
その方

カルピスをください。

店員さん
店員さん

ふつうのカルピスですか?

その方
その方

「普通」ってなんですか?

店員さん
店員さん

あー、水で割ったカルピスのことです。もしあれでしたら、ソーダで割ることもできます。

その方
その方

それならそう書くべきでは。人によって「普通」は違うので。

会話自体は和やかなもので、店員さんも「たしかにw」みたいな感じで終わったのだが、後々考えてみると、こうした日常の小さな一コマでも、「普通」なんてない、という感覚を持って、かつ、それをきっちり指摘できるのは凄いと、感心したものである。

そういう人だから、私の結婚に際しても、自分の「普通」をあてはめず、「生涯を共にしたい人を見つけた」という事実に対する祝福を述べてくれたのだろう。

この、常に自分や他者の「普通」を疑う姿勢は、差別や偏見に基づく行動をしてしまわないために、とても重要なスタンスだと思う。何がマジョリティなのか、誰がマイノリティなのか、それは環境や状況に応じて常に揺れ動く。

しかし、実践は難しい。自分の「普通」を疑うことは、自分の立脚点を疑うことに他ならず、辛く苦しい。「文化だから…」「伝統があるから…」等々、自分の知っている「普通」に寄りかかって思考停止する方が、圧倒的に楽だ。

それでも、この方のように、息をするように自然に、「普通」を疑える方がいる。

それで救われた私がいる。いつも、この方のようになりたい、と思って生きている

本当に、心から感謝しています。

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