(本レシピのポイント(作成者:ちろちろ))
✔ 「LGBT+の権利を認めるのは、ペドフィリア(子供に対して性的衝動を抱く人)が子どもに手を出す権利を認めるのと同じ」という議論がある
✔ LGBT+の人は自らの性的対象を「自分と対等の、独立した人格として扱う」ことができるが、ペドフィリアの人はそれができない
✔ 魯山人の料理論同様、自分の性的指向(嗜好)を他者に強いるべきではない
SNSなどでたまに見かける議論として、「LGBT+の権利を認めたら、ペドフィリア(子どもに対して性的衝動を抱く人)が子どもに手を出す権利も認めることになってしまう」というのがある。これに「LGBT+とペドフィリアは全く違う」と反論する人は多いが、なぜ「全く違う」のかをきちんと説明している人は案外少ない。
私の回答は、LGBT+の人は自らの性的対象を「自分と対等の、独立した人格として扱う」ことができるが、ペドフィリアの人はそれができない、ということに尽きる。私は、きゃんきゃんを自分と対等の、独立した存在として愛することができる。それは彼女が大人であり、好きなことは好き、嫌なことは嫌と言えるからだ。私が彼女に「キスしたい」と言ったら、彼女は「同意」するか「拒絶」するか、選ぶことができる。
精神的・肉体的に未熟な子どもには、それができない。大人が子どもを愛する時点で、そこには明確な権力関係があり、子どもは自由に同意/拒絶することができない。だから、ペドフィリアの人が子どもに手を出すのは、レイプや性的虐待と同じ、犯罪だ。
魯山人は、「料理は相手を診断せよ」と語った。
…自分の料理を他人に無理強いしてはなりません。相手をよく考慮して、あたかも医者が患者を診断して投薬するごとく、料理も相手に適するものでなくてはなりません。…相手の嗜好を見分け…その要求が叶うようでなくてはなりません。相手の腹が空いているかどうか、この前にはどんなものを食べているとか、量とか質とか、平常の生活とか、現在の身体の加減とかを考慮に入れなければなりません。(日本料理の基礎観念)
これと同じく、我々は自分の性的指向(嗜好)を他人に「無理強いしてはな」らない。「相手の嗜好を見分け…その要求が叶うようで」あってこその愛だ。これは、「人を殺してはならない」と並ぶ人間社会の大原則だと私は思う。本人の意思を顧みず振るわれる性的行為は、山岸涼子先生の「緘黙(しじま)の底」の表現を借りるなら、その人の「魂を殺害」する行為に他ならないのだから。
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